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平成21年3月3日
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.10」
もったいないので公開します!

石野館長が新年に当館のボランティアのために語った
「ここだけの話」です。

内容 「弥生の山城」-戦いに備えて-
 
今日は「弥生の山城」ということで前回に続いて戦争が弥生時代にあったという話です。
弥生時代っていうのは縄文時代と違って本格的に農業をやるようになった時代です。米を作るようになったと。そうすると土地に値打ちが出てくるわけです。米作りは田んぼでやりますから水が必要になってきます。すると水をめぐって争いがおこる。水争いが起こると、それから村を守る。ということを今から2000年ぐらい前の弥生人たちは懸命に土地を耕し、ムラを守るようになりました。
 今から50年ぐらい前でしょうか弥生時代に不思議なムラがあるということが注目されるようになったんです。弥生時代っていうのは田んぼで米を作るのが主な産業の時代だったはずなのに、米が作れないような山の上にムラを作っているのがあることに気がつきました。
 最初に注目された地域は山口県ですけども今は九州から関東地方まであることが確かめられています。点々と山の上のムラが作られていることがわかってきました。
山の上のムラには大きく3つの時期があると考えられています。最初は弥生時代の中頃(紀元前100年ぐらいの頃)ですけども、その頃がピークのひとつ。次は紀元後1世紀ぐらい、弥生時代後期の頃ですね。それから3世紀の邪馬台国の時代から4世紀ぐらいにかけての時期です。3・4世紀はおそらくヤマト政権が各地域に攻め込んでいくという現象に起因していると思います。そういう「山城」が弥生時代中期、後期、古墳時代のはじめというふうな3つの時期をピークにしてあちこちに作られたようです。
具体的に発掘調査によってそれが明らかになったのが、昭和39年に出た報告書で、それが今日の資料の1番と2番の遺跡です。
 1番は香川県、瀬戸内に面した紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)、「紫の雲が出る」なんてかっこいい名前です。瀬戸内の香川県高松市の西の方の詫間町(現在は三豊市)という、瀬戸内海に向かって突き出た半島の標高300メートルぐらいのところにあります。
今はてっぺんに喫茶店があってなかなか眺めが良く、公園になっています。京都大学におられた小林行雄さんが随分前に調査されて、その後佐原真さんが中心になって発掘調査報告書を作られました。
 紫雲出山遺跡の場合、住居跡がはっきり見つからなかったんですが、石で作った鏃(石鏃)が大量に出てきた。その鏃の重さを量ってみると、平地にある遺跡から出た鏃とは違って重い鏃ばっかりやったと気が付いたんですよね。
同じような時期に私は芦屋市の会下山遺跡から出てきた鏃とか、それ以外の遺跡の鏃とかの図面なんかを書いたりして研究しておりました。今から40年前ぐらいのことですかね、佐原さんと京大の大学院生の都出比呂志さんの2人が芦屋市の郷土資料室に来られました。目的は芦屋の高地性集落遺跡の石鏃の重さを量ることでした。厳密に重さのわかる小さい秤を持って来られました。
正直、「こんなことで何が分かるんだろう?」って、その時思っておったんですが、それがこの1番の図表の本のデータになっているんですよね。
余談ですが私はその頃、芦屋に下宿しておりまして(芦屋に下宿してたというとかっこいいんですが、台所もトイレも共同で、今どき芦屋にそんなアパートあるのと言われるようなとこに住んでおりまして。)その日の晩は、その6畳一間の布団は1組しかない下宿で、どうやって寝たのかわかりませんけれども、とにかく3人で寝ました。(笑)
 その後数年経ってこの紫雲出山の報告書が出て「あ、これだったのか!」ということで。その時も話は色々してくれたんですけれども、重さからみると、戦いは瀬戸内沿岸地域でかなり起こってると。大阪からずーっと山口県にかけて起こってるとわかってきました。山間部に入ったら、例えば兵庫県の三田市から出土した石鏃の重さを量ってみたら、みんな軽いと。小さくて軽い。だから戦いは山間部に及んでいなかったというのが佐原さんの結論でした。
 しかし、その後兵庫県教育委員会で三田市のニュータウン開発に伴う発掘調査をして、出土した鏃の資料がどんどん増えました。そしたら、重たい鏃がいっぱいありました。やっぱり三田も戦いの一角になっていたんだ、ということがわかりました。
 それに対して芦屋の会下山遺跡は鏃はそんなに多くないんですが、住居跡がかなり出ました。図の2番に山の尾根に山手中学がありまして、その裏山です。中学生が植物園を裏山で作ろうと思って、みんなで山を削っていたら土器のかけらが一杯出てきた。教育委員会に連絡があって、関西学院大学におられた武藤誠先生を中心に、この間ここで講演してもらった村川行弘さんとかですね、そういう人達が中心になって調査をされました。
私は大学院生の頃だったと思うんですけど、ずっと発掘調査に参加しました。今日来られている播磨町郷土資料館の橋爪さんなんかと真夏のカンカン照りに真っ裸になって掘ったんですよ。今考えたらよくあんなめちゃくちゃなことやっとったと思います。芦屋市の郷土室にその頃の写真があって、その写真が知らん間に本の挿絵として出たりするんです。佐原さんが調べに来た時、あの人はちゃんとネクタイして来たんですよ。
写真にはネクタイした佐原さんと半裸の私たちが並んで写ってまして「紳士と野人」みたいな感じでした。(笑)
 会下山遺跡の住居跡は海からの高さですね、260メートルとかの高さだと思いますけれども。いろいろ面白いことがありまして、山の上の遺跡って言うのは、瀬戸内海に敵の船が来たら下の親ムラに教えるという働き。砦のような働きがあるっていうふうにいわれています。住居の数は少ない、と。見張りだけすりゃいいんだから1軒か2軒あればいいんだというような考え方が今もあるんですけれども。
会下山遺跡はそれと違いまして、同時に5軒ないし6軒の家があります。そして器(うつわ)類もたくさん出てきますので、一時的に山の砦で生活をしてるんじゃなくて、ずっと日常的な生活をしている。しかし弥生時代なのに米を作る道具が出てこない。例えば石包丁っていう穂を摘む道具。考古博物館の田んぼでも皆さんで石包丁で一生懸命、稲の穂首を刈りましたけれども。ああいうのが全く出てこないんですね。
 そしたら米は下のムラの人たちが作って上のムラに運んでおったんだろうか?弥生時代はそれほど進んだ社会なのか。自給自足ではなくて、戦争に備える専門のムラ、あるいは田んぼを作る専門のムラ、土器を作る専門のムラっていうようなムラごとの分業体制が出来ておったんだろうか?なんていうことを考え始めるような調査になりました。
 だから単に戦争に備えてというだけじゃなくて、弥生時代の社会を考えるような調査になりました。
 その後、大阪府の池上曽根遺跡という平野部の大遺跡、あるいは奈良県の唐古鍵遺跡とか、そういう平野部の大遺跡の調査が進んできて、そこから出てくる石の鏃とか土器の組み合わせとかと比べてやっぱり同じような生活内容をしておったということがわかってきました。そのなかで変なのは、お祭りに使う脚のついた皿(高坏)、そういうものが出土する比率が高いということです。下のムラに比べるとその比率が高い。山の上では、下でやってないお祭りをやっていたんじゃないか、というのが例えば2番の地図の住居跡とかから出てくる高杯が多いということからわかりました。
 図の4番は京都府の京丹後市の扇谷遺跡です。弥生時代のごくはじめの頃、これは非常に珍しくて高さ40メートル程度の丘ですけれども、丘の周りに堀を巡らして、やっぱり戦争に備えているようです。初期の段階の戦争に備えたムラが日本海沿岸にあるいうことがわかりました。遺跡は残念ながら工事で無くなってしまいました。
 それから3番は大阪府南河内郡河南町の東山遺跡。近つ飛鳥博物館の近くにあります。250から300メートル規模の丘の上です。高さは50~60メートルぐらいですけども、その丘の上に尾根が四方にのびていまして、各尾根に人がかたまって住んでいます。3番の地図の右側に四角で囲った所がありますが、これは私が発掘調査の成果をもとに想像したものですが、丸く黒く塗りつぶしてあるのが首長の家で、左側に一個ずつ分かれてあるのが中間管理職みたいなもんで、その先に4~5軒かたまっているのが普通の家です。階級と言いますか、トップと中間と普通の下々という住み分け、作り分けということがあったんではないか、ということを20年ほど前に論文で書いたりしたんですけれども。話がちょっと出来すぎているのと、真ん中の家の規模が小さいのに加えて遺物が出土しない。なんにもモノ持ってないんですよ。かっこいい論文ですが、実態と合わないということで今は自分でも考え過ぎかな、と思ってます。
 可能性としてそういうことはあり得るんですけども、山の上のムラでそこまで階級的な住み分けをするようなムラづくりをやっていたというのは、これからの調査でそれが証明されるかもわからんのですが、ちょっと今のところ材料不足ですね。
弥生時代始めから古墳時代の始めにかけての山の上の集落遺跡は、防御のための高地性集落という言い方で注目されています。加えて下のムラは十重二十重に自分のムラの周囲を濠で囲んでおります。環濠集落と呼んでいまして、山城に対して平城と呼んだらいいと思います。弥生社会は山城と平城、そして平城が親ムラで山城が子ムラになってその地域が一体として弥生社会を構成している。というふうに考えたらいいんじゃないかな。
博物館に展示してあります玉津田中遺跡は平城、自然の川に囲まれた平城的な大集落ですね。そういうところが兵庫県内のあちこちにありますよ。
ということで今日は終わっておきます。どうもありがとうございました。

 1月末から2月の始めにかけて中国に旅行に行くものですから、来月分は早々と資料を渡したんですけれども、わけのわからんタイトルです。
柏餅と…なんやったかな?柏餅と何とかいう・‥‥ あ!銅鐸です!(笑)
「柏餅と銅鐸」というわけのわからんタイトルで・・・・
中身はこれから考えます。
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.10」
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