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ひょうご考古学トピック

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平成21年04月10日
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.11」
もったいないので公開します!

石野館長が春に当館のボランティアのために語った
「ここだけの話」です。

内容 「柏餅と銅鐸」-銅鐸の多量埋納と葉の呪力-

 今日のタイトルは「柏餅と銅鐸」というタイトルで「播磨国風土記」からこのタイトルを思いつきました。
 資料の1番に「播磨国風土記」を載せています。奈良時代に作られて日本の各地域の名所旧跡や産物を書いた「風土記」という書物は、今は5冊しか残ってないんですよね。そのうちでも播磨国風土記は良く残っていて、兵庫県にとっての宝物です。兵庫県の播磨国にある考古博物館の館長なった以上、「ちょっとは勉強せんといかん」と思って、住まいのある奈良から博物館に通勤の途中にパラパラ読んだりしていましたら、妙な文章に行きあたりました。
それが葉っぱのことなんです。
 「播磨国風土記」を読んでいきますと、揖保郡ですから播磨の西の方ですね。姫路からちょっと西。意比川(おしかわ)という地名伝説です、「品太(ほんだ)天皇(応神天皇)の世」。「出雲の御蔭の大神が枚方里神尾山に坐まして。」出雲の神さんが枚方(揖保郡太子町平方あたり)の山に居ったと。「毎に行く人を遮り、半ばは殺し半ばは生かした。」出雲の神さんが枚方におって、通る人を半分は殺し、半分は生かしたと。「其時、伯耆人小保弖(こほて)・因幡の布久漏(ふくろ)・出雲の都伎也(つきや)の三人が相憂い朝廷に申し上げた。」伯耆は鳥取県。因幡の白兎の因幡も鳥取県。出雲は島根県。つまり日本海側の3人が朝廷にこの実態を申し上げた。「朝廷は額田部連久等々(ぬかたべのむらじくとと)を遣わして禱らせた。」その時に「時に屋形を屋形田に作り、酒屋を佐々山に作って之を祭った。」つまり神様をなだめるために、屋形を作って酒屋を作って宴会をやったわけですね。「宴遊(うたげ)して大いに楽しんだ。即ち、山の柏をとって帯に掛け腰に挿(さしはさ)んで、此の川を下りて押し合った。故に厭川(おしかわ)と号けた。」この土地が厭川という名前になってるのは、こういういわれがあるんですよ、という事が書いています。
 そこで、最後に傍線をひっぱてあるところに、「山の柏をとって帯に掛け腰に挿んで」という。だから宴会をやっただけではなくて、柏の葉っぱを取って来て…というふうなことが書いてあるんです。播磨国風土記の中には、この他にも3ヵ所ほど葉っぱに関する伝説がありまして。柏の葉っぱとか椎の木の葉っぱとか、一年中緑の葉です。緑の葉っぱにまじないの力があるっていうふうな伝説が風土記に書いてあります。
 日本最初の歴史の本で『日本書紀』という書物がありますが、その中で仁徳天皇の奥さんで磐之媛(いわのひめ)っていう奥さんおりますが、やきもち焼きで有名なんです。天皇がちょっと浮気したら、外出先からそのまま実家に帰ろうとします。実家は大和・葛城の大豪族の娘なもんですから、プライドが高いというか、ちょっとエラそう…エラそうというと、こちらのご婦人方に怒られそうですけれども。(爆笑)
そういうお姫さんが紀伊国(和歌山)に柏の葉っぱを取りに行った話が『日本書紀』に書かれてます。
恐らく呪力のある葉っぱを求めてということだと思います。
 それに関連して行事としての花見そのものも、もともとは桜の下で宴会をやるんじゃなくて、葉っぱの呪力、青葉が繁る勢い、それを体に受けるための行事が花見の始まりで、それがどんどん発展して生け花にもなったんだと、風土記を解説している人が書いた本を読んだことがあります。それはホントかどうか分かりませんが。そういうふうに研究者が考えるぐらい、葉っぱの呪力いうのがあるような気がします。
 たまたま「風土記」の中で葉の呪力の話に出会った時に、「あれ?そういえば銅鐸に葉っぱがひっついているのがあったなあ」ということを思い出しました。
 それが6番の銅鐸の一部にひっついた葉っぱなんです。神戸市の東灘区にあります桜ケ丘神岡の銅鐸です。
昭和39年ですから、今から46年ほど前。29歳という、まだふさふさとしとった頃じゃないかと思いますけれども。(笑)その頃は高校に務めとったんですけれども、「銅鐸」出たというのを聞いて一週間ほど学校をサボって発掘現場に通いました。とうとう校長に怒られましたけれども。その時撮った写真が3番です。銅鐸が14個。5番に写真がありますけれども、工事中に出てきました。工事と言ってもこの頃はおおらかな工事で、おじさんがひとりでツルハシでちょこちょこと土を取ってるという感じでした。それで2トントラックぐらいなのが土を運びに山の中にやってくるという。まあ、そういう土採りで、そこで銅鐸が出てきて、おかしなもんやといって、家に持って帰った。そしたら土建業者の会社の人がそれに気がついて、「まだあるかもしれん」、と掘ったらまた出てきたという。そういう経緯で見つかったんです。
最初に見つけた人の銅鐸もみんな親会社の方に集められ、本人はお金を貰ったかもしれませんけれども。今は14個無事に神戸市の博物館に並んでおります。
 その当時兵庫県の文化財審議委員をやっておられたのは、辰馬酒蔵の辰馬悦蔵さん(この方は京大で考古学やられた方です)、それから文化勲章を後に受けられた末永先生、関学の先生の武藤先生。(お二人とも私の恩師に当たる先生ですけれども)そういう大先生ばっかりだったので、現場でスコップ持って掘る人間がいなかったんです。その時に一週間学校休んで現場に行ったおかげで「お前やれ。」と言ってもらえて、これ幸いに掘りました。銅鐸は、ぜんぶ取り上げてしまった後ですが、銅鐸を埋めた穴が残っているんじゃないかということで掘らせてもらいましたが、残念ながら銅鐸を埋めた穴の痕跡は残っていませんでした。
 その後、銅鐸1個ずつ写真を撮っていく過程で、葉っぱがひっついてることがわかったんですね。そこで、植物学専門の三木茂先生が4番の所に説明を書いてますが、貴重な銅鐸を既にあった穴の中に埋めたんではなくて、わざわざ別に穴を掘って椎の木を下に敷いて小枝を下に敷いてその上に銅鐸を置いたんだろうと推測されています。
銅鐸が埋まったまんまの状態で出ているのが十数例あるんですけれども、その中で銅鐸に葉っぱが付いてるいうのは他にありません。ですから、銅鐸を埋めるときに、すべてが葉っぱを下に敷いて埋めてたというわけではないでしょうね。だいたい葉っぱは腐ってなくなりますけれども、銅鐸に直接ひっついておったら銅サビにひっついて残るんですね。そういう偶然がたまたま桜ケ丘神岡にあったんでしょうけれども、他の銅鐸にはありません。
 そこで播磨国風土記を参考にすると、銅鐸群の再生を願って意識的に緑の葉っぱを置いて、その上に置いたということがあり得るだろうか。ということを思って今日の様なテーマになったんです。
 柏餅は、緑の葉の呪力が体に勢いを蘇らせてくれるという思いで餅を包んだりしたのでしょう。そうすると柏餅と銅鐸が再生を願うというところで何かつながるような気がします。
先日、考古楽倶楽部の人たちと銅鐸叩いて壊す実験をしました。
女王・卑弥呼が新しい宗教を持って登場したとき、弥生の神様を叩き壊した。弥生の神様を祀るための道具を叩き壊した実例が奈良県では2つの遺跡で見つかっています。兵庫県では但馬の豊岡市の久田谷で銅鐸を叩き壊しています。久田谷を調査した人がこの前の破壊実験の時も来てくれてましたけれども、欠片を全部集めても銅鐸全体の4分の1しかない。後はどうしたんや?またどこかへ持って行って他の物に作り変えたんだろうか?今で考えると仏さんを叩き壊して、一部は穴を掘って埋めて、一部は他の物に作り変えるというようなものです。そんなひどいことを弥生の終わり、古墳のはじめに(邪馬台国卑弥呼が登場した頃に)やったということなんですよね。
それに対して桜ケ丘神岡の人たちはそうじゃなくて再生を願って葉っぱを敷いて静かにまた帰って来てくれという思いを込めていたんでしょうか?ただそれについては別の考えがあります。一番最後に表を載せていますが、真ん中に桜ケ丘銅鐸というところが四角で囲んでます。で、桜ケ丘の西にかけてはどこで銅鐸が出ているかというと、22キロ離れた所に1個あるだけです。それに対して東、芦屋から西宮にかけて9.9キロの間に、合計6個の銅鐸が出ています。10キロの間に6個の銅鐸を埋めている六甲山麓。それに対して、西側は20キロ離れたところに1個あるだけだ。
ということで、この桜ケ丘の銅鐸が見つかった時に、京都大学におられた小林行雄さん(神戸出身の方ですけど)は、西側の各村々にあった銅鐸を新しい国づくりという段階でまとめて桜ケ丘に埋めたんだ、という解釈をされてます。それだったら桜ケ丘より東の方、西宮から尼崎にかけての地域っていうのはそれぞれの村の独立性が強くて、親方が「みんな持ってきて埋めろ」と言っても「いやだ」と言って、それぞれ自分の村の近くに埋めた。ということなのでしょうか?
だから銅鐸の終わり方についても、それぞれの地域の独自性があったということになるのかなあ?いう感じがします。
柏餅を食べながら改めて考えてみたいと思います。
以上、終わります。
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.11」
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