兵庫県立考古博物館
当館について
展示と活動
利用案内
もよおし案内
HOME
> ひょうご考古学情報 / ひょうご考古学トピック
平成21年04月28日
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.12」
もったいないので公開します!
石野館長が春に当館のボランティアのために語った
「ここだけの話」です。
内容
「女王ヒミコの宮殿?」-奈良・纒向-
5分ほど前にテーマが変わりました(笑)。今晩のテレビと明日の新聞で報道されると思いますが、奈良県の纒向遺跡で卑弥呼の宮殿か?といえるような建物群の端っこが現れました。そんなニュースが今晩から明日にかけて流れるのに、今日白々しくよその話をしとったら、来月に怒られそうなんで(笑)、急遽その話にしようと慌てて資料を作りました。
纒向についてはいろんな本が出版されていますが、最近こんな簡単な本をつくりました『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』(新泉社)。場所は奈良盆地の東南、奈良県桜井市です。昭和46年、私が橿原考古学研究所に入って2年目ぐらいの頃に調査を5年間ほど担当しました。その時は今回のような建物は出ませんでしたが、橿原考古学研究所の寺沢君が30年ぐらい前に調査した時は、建物の一部が出てきました。その図面が上の図面です。塀で囲まれたような建物がありますけれども、その復元図が資料の右上の建物跡です。
この建物は3世紀前半(200年代の前半)のものですから邪馬台国が大和にあったとすればその女王卑弥呼の宮殿っていうか、卑弥呼の時代になります。九州にあったとすれば、邪馬台国とはなんの関係もない「卑弥呼の時代の建物」にすぎなということになります。
そういう建物があることはもう30年ほど前にわかっていたんです。その同じ場所を桜井市教育委員会が2月上旬ぐらいから発掘調査をやっています。そうしましたら30年前に見つかった建物と同じ方位で、柱の並びのそろった2つの建物が現れました。少なくとも3つの建物が東西に並んで、柱通りを揃えて、方向も揃って出てきた。というのがごく簡単な事実です。
それだけならどこにでもありそうやないか、ということになるんですが、実はどこにもないんです。飛鳥時代以降の宮殿とか平城宮とかになりますと、建物の柱通りを揃えて、方向を揃えた建物配置というのがごく普通になります。お寺とかもそうですね。建物の方向があっち向いたりこっち向いたりせずに整然と並びます。
古墳時代、後に天皇と呼ばれる大王の館はどうなのか?というと、実は大王の館は現時点では見つかっておりませんからわかりません。ただ、豪族居館と呼ばれるものはあっちこっちで出ておりまして、一番代表的なのは群馬県三ツ寺遺跡の5世紀後半(ちょうど雄略天皇の頃ですね)の頃の宮殿とか、国内で30か所ぐらい豪族の館というのが見つかっています。そこには大型建物も何棟かありますけども建物や柱通りが揃っているというものはないんです。古墳時代にも今のところない。それなのに3世紀の邪馬台国の時代の建物が綺麗にならんでいるというのが、驚きなのです。
建物が縦に綺麗に並んでいるということは、方位を揃えているということです。左右対称の建物というのは飛鳥時代になると出てくるけれども、それ以前は今のところありません。大阪の池上曽根遺跡で「整然と建物が並んでいる」と言ってる人もいますけれども、残念ながら多くの人は違うという見解です。ですから現時点では弥生時代に関しても古墳時代に関してもありません。
そういう状況なのに、なんで?ということになるんですが。30年前に建物の復元をした人は奈良の宮大工さんですけれども、その人はこの建物の現地調査(30年ほど前の調査)の際に現地を見にきて柱間の距離を測ってみると、尺度がどうもおかしいと。韓国や中国の尺度と合わせてみてあわない。それで色々探していったらぴったり合ったのが卑弥呼が外交交渉していた魏の国のおめでたい尺度(吉祥尺)。そういう中国のおめでたい尺度を使った建物を建てるという思想がこの時期入って来てるんじゃないかということが、30年ほど前に論文として出ております。
そういう場所できれいに並ぶ建物が出てきたということで、今、奈良で大騒ぎしています。客観的には今のところ女王卑弥呼の建物の一角であるというのは、まだまだ言えません。女王卑弥呼の時代に初めて整然と並ぶ建物群の一部が出てきた、というのが正確なとこでしょうね。
ところがその場所の近くを私が40年ほど前に掘りまして、場所は下の地図の川に挟まれたところです。長方形の区画を点線で書いていますが、今回の建物群はこの区画の中で収まります。
この区画は地形からみると幅70~80メートル、長さ120メートルぐらいの長方形区画になりそうです。以前に『邪馬台国の考古学』(吉川弘文館)という本を作った時に卑弥呼の宮殿を想像した図面を書いたことがあります。そのときは長方形区画の片方を卑弥呼、片方を男弟とし、その中間に婢千人のための小さい建物がいっぱいあるという想像図を描いたんです。想像図のヒントは滋賀県富波遺跡で、同時期の全長40メートルぐらいの古墳が2つ、方形区画のなかに並んでいる資料です。この古墳の埋葬施設は削られてしまっていましたが、死後の世界をこのように配列するということは、生前の世界もこうなっていたんじゃないかと考え、『魏志』倭人伝をもとに(卑弥呼には召使が1000人ほどおったと言いますからその人の建物とか、食事を運んでくる男子一人というのがありますからその建物とか)想像しました。
今回見つかった建物跡は長方形区画の端っこの部分になるんですけども、もしかすると2つ並んだ本格的な建物が出てくる可能性があります。桜井市にとって計画的な調査は今年初めてです。私は桜井市の市長さんに「飛鳥の宮殿の中枢部を探すのに橿原考古学研究所が40年ぐらいかかっています。だから3年や4年や5年で見つからないからといってあきらめないで下さい。息長くやって下さい。そんなものめったにわかりませんから」と言っていたのに、いきなりわかりかけてきたんですね。(まだわかりませんけども)今のところは手がかりの一端がつかめたということですね。
今年また調査やるそうですから、そこで今回ちらりと見つかっている小さな建物群-柱の太さが15センチ程度で建物の大きさも5~6メートル程度の小さな建物-が綺麗に並んでいることの意義が今年の調査ではっきりしてくるんじゃないかと思います。
今晩からテレビのニュース、明日の新聞に大々的に報道される気配がありますんで、来月になって熱が冷めた頃にしゃべるよりは、今日話して新聞テレビを見ていただいたらいいかなと思って、突然テーマを変更してお話しました。
これで終わります。
資料
ページトップへ
お問い合わせ
サイトマップ
リンクリスト
サイトポリシー