兵庫県立考古博物館
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平成21年06月04日
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.13」
もったいないので公開します!
石野館長が当館のボランティアのために語った
「ここだけの話」です。
内容
「最初の弥生木棺-尼崎市田能遺跡-」
今から45年ほど前までは、弥生時代(日本人が米を食べ始めた頃)の棺というのは、九州の甕棺だけが知られているという状況でして、中学や高校の教科書でも弥生人の棺というと甕棺の写真が教科書に載っているという時代でした。
そういう時代に尼崎市が伊丹市と宝塚市の3市共同で水道施設をつくるということで工事を始めたら大量の土器ががらがらと出てきて、それが田能遺跡です。そこに遺跡があるこということはわからなかったんですね。
その頃、私は高校に勤めておったんですが、その話を聞いて現場を見に行ったら、土器出てきている。とにかく工事と並行して発掘調査を行いました。またまた学校さぼったわけですね(笑)。
その調査中は、完全な土器が何10個もまとまって出てきて、まだ調査が終わってないのに、ブルドーザーが走るんですよ。あのときの音っていうのは、今でも思い出すんですが、「ぱかっ、ぱかっ」と音がするんです。土の中に完全な土器が残っているので、土器の中が空洞になっているんです。その上に重機がのって割れるものですから、空気が破裂する、ほんと凄まじい音で、弥生人が泣き叫んでいるような音で、ほんとに大変なことでした。
その後、武藤誠先生が調査団を組織して、発掘調査に入るということになりました。私は若気の至りで学校を辞めて飛び込んだんですけれども。当時、新婚ホヤホヤでして(私事ですが・・)「もう学校辞めるわ」って言ったら、嫁さんが「ちょうちょになって養ってあげる」って言いまして、「ちょうちょ、って何だ?」って聞いたら、「夜の蝶々」だそうで。(笑)えらいこと言う嫁さんやなって思いましたけれども養ってもらいました。未だに頭があがりません。(笑)
調査に飛び込んでバイト代くらいは貰いました。そうやって調査が何とか軌道に乗りかけた頃、生まれて初めてアジビラっていうのをつくりました。大分県の別府市で開催された考古学協会全国大会。全国の考古学者が集まる大会がありまして、そのときに、高校のガリ版を使って「遺跡がピンチだ!」っていう内容のことを一生懸命ビラに書いて、そして別府へ行ってビラ配りましたら、国学院大学、同志社大学、関西大学とかの学生たちが、先生も含めて学会の帰りに発掘現場に立ち寄って、自費で一週間でも十日でも泊って、調査に参加してくれました。そうやっていろんなことがわかってきました。
1番の所に地図があります。これは遺跡全体の中の一部分ですけれども、左右が70m、縦が30mくらいの範囲です。その中で丸く書いているのは弥生時代の住居跡です。四角く溝で囲んでますのが方形周溝墓と呼んでおりますお墓です。四角く囲んでいるお墓のまわりや、中に黒く塗りつぶしているのが木棺です。
木棺は木の板を組み合わせてつくった箱形のもので、人間が一人入るぐらいの大きさです。今は弥生時代の木棺っていうのは特に珍しいものではありません。この当時はまったく初めてでした。木棺が見つかったと新聞記者が京都大学の偉い先生に取材にいったら、「そんなものは別に珍しくともなんともない、そのうちなんぼでも出てくる」と。
あれはショックでしたね。大変なことなんだ、なんとか遺跡を残したい、調査期間が欲しい。というときにこのコメントっていうのは、現場としてはたまらないコメントでした。なんとか堪えましたけれども。でも結果としてその先生偉いですね。初めて出たからといって有頂天にならずに、そういうことは当然有り得るよと、学者っていうのはそうでないといかんのでしょうね、きっと。初めてだとつい有頂天になりますけれども。
2番の写真に調査地区の全体が写っていますが、蜂の巣のように柱の穴が無数に出てきました。でその中に四角く溝が囲んであるのが、方形周溝墓の残骸です。
3番の写真には木棺と遺骨が写っています。肉はもう腐ってしまって骨の一部が残ってるんですが、左側に蓋板をあげて、横に置いた状態の写真が3番です。これは骨が残っているので、わりととましな方ですね。湿地帯の神戸市の玉津・田中遺跡でも骨が残っていて珍しいのですが、土と遺体が触れますと腐ってしまいますからね。骨ごとみんな腐ってしまいます。なぜ田能遺跡では人骨が残っているのだろう思っていたら、横に猪名川っていう川が流れているんです、その川の成分を分析したらフッ素量が多いということがわかりました。フッ素っていうのは歯磨きに入っていますよね。骨に良いんだとかいう。だから残ったのです。理科系の先生からの指摘で分かりました。
こういう棺が16棺出てきました。そのなかで珍しいのは、5番6番の写真のものです。1番の地図の左隅のところに16号17号と番号ふっているものです。珍しく副葬品を持っていました。近畿地方の弥生時代のお墓で副葬品(玉とか鏡とか刀とか)を持ってるお墓っていうのは今でも非常に珍しいです。玉津・田中遺跡のものもほとんど持ってないですね。九州は甕棺の中から鏡とか玉とかいっぱい出てくるんです。だから、九州は金持ちで近畿は貧乏だとか。九州の弥生時代研究者と講演会やシンポジウムやりますといつもケンカになるんですけどね。
近畿の(私もそうですが)弥生時代研究者は、「近畿の弥生人はそんな大事なものをお墓に持っていくような、そんな勿体ないことはしない」って言うんです。
そうすると、九州の研究者は「持ってない物を埋められるか」って言う。(笑)
ところが、田能遺跡の2人(16人の内の2人の人だけ)は副葬品を持っていました。1人は800個近いいわゆる碧玉製の管玉です。4番に写真があります。
6番は腕に白銅っていう銀の混じった銅の腕輪をした人が出てきました。今でも非常に珍しいので、もしかしたら九州の人ではないのかな、というふうに私は報告書に書きましたが、まだ確証はまだ無いですね。近畿の風習には無いものですから、もしかすると九州の人が近畿に来て、ここに葬られているんじゃないかと思ったりしました。
それからもう1つ、この遺跡で問題があります。第1号方形周溝墓と第2号方形周溝墓と書いている四角いお墓が2つあります。木棺墓の時代は弥生時代中頃で紀元前100年ぐらいです。それに対して真ん中の2基の方形周溝墓は、古墳時代前期の4世紀です。大きな前方後円墳が造られている時代に、田能遺跡の人は四角い10m四方ぐらいのお墓に葬られていました。弥生時代以来の伝統的な方形周溝墓に葬られていたことがわかりました。
それで、今でも不思議なんですけれども、第1号の方形周溝墓の溝から、長さが4mくらいの角材が2本出てきました。その角材を見た時に、もしかしたらお墓の上に建物が有ったんじゃないかと私は思いました。その建物が壊れるか壊されるかしてその柱材が、溝の中に置かれておったんじゃないかなと予想しました。
今でもそう思っているんですが、もうそんなことを証明できることは有り得ないのだろうという考えがこのあと40年間くらい続いていたんですが、今から10数年前に島根県の弥生時代のお墓で、お墓の上に4本柱の柱穴が出てきまして、西谷遺跡ですけれども、お墓の上に建物があるということが初めて認知されました。
言い続けておって良かったなと思いました。建物があるということがどういうことかと言いますと、この埋葬の制度は実は中国に遡るんです。中国では有力者が亡くなった時、お墓の上に立派な本格建築をつくります。そして、墓守がそこにおりまして、亡くなった人のところに食事を持って行っているんですね。そういう制度が中国にはあります。それが弥生時代に日本に入って来ていたということにもなるんですね。
それを最初に思ったのは川西市の加茂遺跡です。あそこの弥生時代中期の方形周溝墓の三隅から柱穴が出てきました。そのとき学生でしたけれども「お墓の上に建物があんのかなぁ」と先輩に言ったら、「そんなアホなこと言わんと真面目に掘れ」って言われましたけれども(笑)。それが最初です。でその2、3年後に田能遺跡で柱材の一部が出てきて、「あっ、やっぱりあんのかな」と。それを論文にしたのは橿原考古学研究所へ行ってからですけれども。古墳の上にもあるんじゃないのかな、と考えました。
田能遺跡で最初の木棺が見つかって。今では教科書には弥生人のお墓には箱型の木棺と石棺が有り、副葬品を持っている人と、持ってない人がいると。こういういうことが普通にいわれるようになりましたけれども、そのきっかけとなる遺跡です。
それからもうひとつ、そのお墓の上に建物を建てておったかもしれない。みんなそうだとはまだいえませんが、一部の人はお墓の上に建物を建てておったかもしれない、ということを、再確認した遺跡です。それから、近畿では珍しく副葬品(首飾りとか、腕飾りのような)を持っている人がおるという。今のところ近畿では20人ぐらいでしょうかね。丹後地方は別です。ここは金持ちでいっぱい持っています。奈良、大阪、兵庫は貧乏かもしれませんが。そういう習慣(副葬品を納める)が、ないんでしょうね。
そういう違いがわかってきたきっかけが田能遺跡だと思います。
これで終わります。
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