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ひょうご考古学トピック

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平成21年07月04日
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.14」
もったいないので公開します!

石野館長が初夏に当館のボランティアのために語った
「ここだけの話」です。

内容 「古代住居の壁」‐板・網代・桟・草・丸太・土-

 当館で姫路市の飯田遺跡を発掘していまして、竪穴住居の板壁の材料が見つかりました。3月の新聞記事が13番にあって、6番の所には4月の新聞記事があって、こちらは網代壁が見つかっています。
 3世紀ですから西暦200年代で、そのなかの弥生時代と古墳時代の境目、まあ邪馬台国の時代ですけれども、その頃の竪穴住居の壁が1つのムラで、板の壁をもっている家もあれば、草、網代の壁をもっている家もあるということが分かりました。
 板の壁は、この時期として初めてのもので、注目されていますが、古代の住居には、高床の建物もありますが、竪穴住居が一般的です。竪穴住居は、ちょうどあそこ(窓の外を指さしながら)に復元したのが見えますけれども、壁はありませんよね。あの斜めの屋根に窓を付けるとしたら、雨が漏りますよね。仮に斜めの屋根に小さい子屋根を付けたとしても風の強いときなんか隙間から雨が入ってきますよね。ということは竪穴住居であのまま斜めの屋根を地面まで葺きおろしている場合は壁がつくれないということです。住居の中へ入ったら土を支えている板はありますけれども、外から見てわかるような、1mくらいの高さあるような壁は作れないです。
 もし壁があるとなると窓がつくれますから、部屋の中がずいぶん明るくなります。
 壁のない竪穴住居は昼間でも暗いですから、編み物とかやろうとか思ったら外へ出てやらないといけない。家はもう寝るだけの空間という感じですね。
 2、3年前にアフリカのマサイ族の家へ行ったんですけれども、あそこは土壁があって、(窓は20cm四方ぐらいの非常に小さい窓だけで)村のおばちゃん達は外で家の壁にもたれて手仕事をしていました。家の中へ入れてもらったら真っ暗で、入ったとたんは、ほんと何にも見えないという状態でした。おそらく日本の竪穴住居でもそうだったんだと思います。
 そういう時代に、板壁と草壁(網代壁)の両方見つかったということで注目されたわけです。そしたら今まで日本の古代の家で壁についてどんなことわかっているのかを今日は考えてみようと思います。
 資料の1番にスケッチがありますが、これは奈良県の佐味田宝塚古墳(4世紀)から出土した鏡に描いてある4軒の家です。
 1番は「なし」と書いているのは壁が無いということです。土台の上に屋根をそのまま葺き下ろしています。
 2番が高床の建物で、2階部分は板壁で横に板を使っています。床下の1階部分は網代壁ですね。山形の線を重ねて描いてますが、木の皮なんかを編んだ、編み物で壁にしてるというのが網代壁です。
 3番は平屋の建物で板壁。4番は高床の倉で2階部分は板壁で1階部分は網代壁になっています。
 4世紀の奈良県の全長112mの古墳に葬られるような豪族の屋敷には、こういう4種類の形の建物があって板壁もあれば網代壁もあるという壁の作り方をしていたことがわかる良い資料です。
 ここでは窓は描かれていませんが、古墳時代に家形埴輪があって、それを見ると窓が表現してあります。窓は古墳時代になると作っていたことは確かです。
 そうすると、今回見つかった壁の中で網代壁の出土例が資料の5番目です。滋賀県の遺跡で、古墳時代中期ですからまあ5世紀ですね。仁徳天皇とか応神天皇が活躍した時代の滋賀県の豪族の館で網代壁が出てきた。厳密には壁材に使ったかどうかわからんけれども、かなり大きな編み物なので壁の化粧ではないだろうか、と考えられています。
 それから6番にあるのが今回の姫路市にある飯田遺跡。それから、珍しいものとしては7番の壁です。今、「邪馬台国の都か」と話題になっている奈良県の纒向遺跡の中ですけれども、20年くらい前に古墳の盛り上がりが無いところを掘っていたら古墳の堀が出てきて、その堀の中に、細木(2㎝角くらいのヒノキの角材で、長さ2mぐらいのもの)が、写真にあるように、2.5~3mぐらいの長さで、蔓で繋いだ状態で出てきました。おそらく、古墳上にあった建物が堀の中に転がり落ちたんじゃないかと考えられるような出土状態でした。
 この古墳は南飛塚古墳と呼ばれ、年代は3世紀の終わり~邪馬台国時代の終わりぐらい~です。3世紀の大和に角材を壁にしたような建物はあったんじゃないか?と。これは非常に珍しくて埴輪でもそういう表現している壁はありません。家形埴輪の壁はほとんど板壁の表現が多くて、桟の壁に似てるのは8番ですね。これは福井県の埴輪ですけれども、この1例だけが壁、細い板を、木を繋いで壁にしている桟壁です。
 それから10番のところに家形埴輪がありますけれども、丸太と書いていますが、丸太を横に積んで壁にしているんじゃないだろうかというものです。丸太を横に積んだ壁で連想するのは正倉院の校倉造りです。正倉院は、丸太ではなくて、一辺約30㎝の三角材です。(厳密には三角形の角をはつっていますから六角材ですが)それを積み重ねるものです。
 それのルーツとして12番があります。北朝鮮から中国にかけての地域の、今テレビの韓流ドラマで「朱蒙」などの放送をやっていて、私もちょこちょこ見ますけれども、あの高句麗という朝鮮半島から中国大陸にかけあった、でっかい国。3~7世紀頃に発達したでかい国ですけれども、その地域の古墳に絵が描いてあります。丸太横積みの建物は北朝鮮から中国の地域にかけてありまして、その影響で正倉院の校倉造りのような壁ができました。
 正倉院で有名なのは、冬になると木が縮んで、木と木と間の隙間があいて、中に空気が自然に入っていく。梅雨時から夏になると木が膨らんで密封してしまってその湿気の多い風が中へ入っていかないようになる、という木の自然呼吸を利用した建物だという話です。そのおかげで正倉院の宝物は保存されているんだと、よく言われておったんですけれど、30年ぐらい前から、「いやそんなことはない、あれは大したことなくて、中にある木の箱の中に宝物を入れておったからよく残った」という科学的データが出てきたんですけれども、それだけではないと思います。やっぱり木そのものの呼吸というのが活用されているんじゃないかと思っています。どっちにしても丸太の壁は北欧やシベリアなどの材木の豊富な地域の住居に多用されていました。それが埴輪で表現されているのは10番だろうと思うんですが、こういう、丸太を表現した家形埴輪っていうのも珍しいですね。だから滅多にないんでしょうね。
 ただ、丸太横積みの倉は江戸時代から昭和の中頃ぐらいまではあったみたいで、近所でしたら、京都府の美山町。あそこに茅葺きの里とかいう雰囲気良い地区があって、あのあたりでは昭和の初めくらいまで丸太横積みの倉が残っておったようです。
 長野県で“たまに”見られます。残念ながら現代の丸太横積みの倉は傷んできてコンクリートで補修していて、そのコンクリートの壊れたところから中がわかるっていう、そういうのが多いんですけれども、そういうかたちでは残っております。さすがに住まいとしてはもう使われなくなっていますけれども、倉としてはけっこう最近まで使われていました。
 12番が高句麗の地域の壁画の絵ですね。11番は、中国でも南の方、雲南省の邪馬台国時代の金のハンコが出てきた石寨山遺跡の絵です。
 14番に弥生時代前期に土壁建物があったのか?という新聞記事があります。土壁は今の和風の木造建築の壁です。マンションとかじゃなくて、江戸時代以来というか、明治・大正・昭和に建てられた建物に住んでいる人の家は基本的には全部土壁だと考えていいでしょう。竹を碁盤の目のように編んだ芯に土を塗っている家です。あの壁は湿気を吸ってくれます。この博物館は中に鉄筋が入っているコンクリートの壁で、土壁に比べると呼吸の度合いが全然ダメなんですよね。部屋の取り方が大きいからうまいこといってんですけれども。そういう、呼吸する土壁が一体いつ頃からあるだろうかということです。
 近代か現代ぐらいだろうと思われていましたが、奈良県の唐古・鍵遺跡(弥生時代前期・約2500年前)から、土の塊が出てきました。その土の塊の大きさが30㎝、厚みが5㎝ぐらいありまして、土の塊の中に指の太さぐらいの空間がありました。2、3本の棒みたいなものが直角に交わっているようなものがありました。おそらく木の小枝を組んで、でそこに土を塗りたくって壁にしたんだろうと考えられるものでした。年月が経過して中の木は腐ってしまって、指の太さぐらいの空間になったんだろうと思われます。そういう資料が出てきまして、これは日本最古の土壁ではないだろうかと、思っています。
 ただ、これは例外的に古いもので、ほんとに土壁なんだろうか、どうだろうかって自分で言いだしながら、未だに迷っているんですけれども・・・。
 もし土壁でないとすると、炉(竈・カマド)の壁になる可能性あるんですが。これも、弥生前期でカマドがあるがあるなんて言ったら、考古学やっている人間は、誰も信用しません。カマドが出てくるのは、古くても古墳時代の中頃(5世紀頃)だってのが常識ですから、弥生の初めにカマドがあるなんてのは「とんでもない」って言います。
 スウェーデンあたりの民俗例では、直径が50cmぐらいの範囲に木の枝を組んで、土を塗りたくったカマドがあります。それは現代の民俗例です。日本では、江戸時代ぐらいの民俗例ですけれども、そういうのがありますから、案外あってもいいんですよね。
 カマドっていうのは「中国や朝鮮の住まいの形の影響によって」と考えなくても、自然に生まれる可能性もあるんですけどね。
 15番は唐古・鍵遺跡の土壁がわかった時期に、大阪の遺跡の竪穴住居跡の壁際に小さい穴がいっぱい見つかったので、一度見てくれないかという話があって行ってみたんです。発掘された竪穴住居跡の壁際に幅10cmくらいの溝が巡っていて、その溝の中に直径が3~5cmくらいの小さい穴がいっぱいあいていました。それを見たときに、そこに小さい杭を打ち込んで横に細枝で組んで、それに土を塗りたくったら土壁になるなと思いました。具体的なイメージがつかめなかったら、あとで向こうに見えている復元竪穴住居の中に入ってみて確かめてみてください。
 そういう痕跡のある竪穴住居跡が新庄遺跡(大阪府茨木市)で見つかりました。そういう目で見ると、他の遺跡でも結構あるんですね。
 その後、発掘調査している人たちと、あちこち遺跡巡りをしましながら「壁立ちぬ、壁立ちぬ」と言って、遺跡を歩きました(笑)。

 ということで、堀辰雄を盗作して終わります(笑)。



追伸
住まいの奈良県から新型インフルエンザの渦中の兵庫県に通い続けていますが、不思議に元気です。
巷に噂されているように年配者には免疫があるのでしょうか??
                     
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.14」
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