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ひょうご考古学トピック

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平成21年10月10日
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.16」
もったいないので公開します!

石野館長が夏に、当館ボランティアのために語った
「ここだけの話」です。

今回は先月のテーマ「古墳の上の建物」-奈良県 桜井茶臼山古墳の調査-後編です!

内容 「古墳の上の建物」-奈良県 桜井茶臼山古墳の調査(後編)-

大中トークも18回目になりました。
昨日の今頃は、曇っていた空がちょっとだけ晴れて、日食がよく見えたんですよね。11時半頃は、曇っていて太陽が朧月みたいな感じの「朧太陽」になっていましたが、ともかく日食は見えました。
 先月、奈良県の桜井茶臼山古墳という全長が200mクラスの大王墓クラスの大きな古墳の上に電柱のような柵あるいは建物の柱列がある、ということをお話いたしました。その後の新聞やテレビで報道されていたので、ご覧になった方もあるかと思います。今日はその続きということになります。
 先月、大王家の古墳が集中しているオオヤマト古墳群の中にある桜井茶臼山古墳を紹介しましたので、続きまして2枚目の資料6番からの資料のほうに、いきなり入っていきます。

 長さが200mほどの前方後円墳の円丘部(後円部)の上に長さが約14m、幅が約11mの長方形の土壇があります。高さが1mくらいのものです。あとの時代の地震などで少し形はくずれているのですが、太平洋戦争直後の調査で長方形土壇が存在していることは確認されていました。その土壇の裾に50~60cmぐらいの高さの壺が沢山ころがっていました、もともと土壇の上にあったものが転がって下に落ちてきたのだろう、と考えられていました。それを復元したのがこの6番です。断面図で分かりにくいかもしれませんが、左端の真っ黒く塗っているところが石室、石の部屋です。その上にかぶるように長方形の土壇があって、その上に本来は壺がずらりと乗っていたんだろうと思います。この古墳は埴輪がないんです。埴輪の代わりに壺がずらりと乗っていた。壺の底は最初から穴があけてありまして、普段の用途としては使えなくなっています。お墓専用の道具として被葬者の石室の上に土を盛って、その上に並べられておったという状態です。

 今回の調査で、その長方形土壇の裾に柱穴がぐるりと巡るということが分かりました。それが8番です。濃い線で四角く囲んでいるのが竪穴石室を入れるために掘った墓穴、墓壙(ぼこう)ですね。その外側に細い線が2本書いておりますが、これが長方形土壇の裾、上端と下端です。その裾のところに点々と黒い丸(4箇所)をつけていますが、これが今回の調査で見つかった柵あるいは建物の柱穴です。

 私は建物の柱だと思っています。柱の中の埋土が違っていて、柱が立ってたんだなということがわかります。推定しますと、14m×11mの周りにぐるりと電信柱のような柱が密着して並んでるという状況になります。壺が転がって来てその柱の壁に当たって止まった、という状況であったこと分かります。
 もしかすると今回の調査でまだ掘っていない外側にもうひと囲いの柱列があるんじゃないか、といことを考えております。なんでそんなことを考えられるかいうと9番のメスリ山古墳の埴輪列の図面を見て下さい。

 メスリ山古墳という桜井茶臼山古墳から2kmぐらいのところにある200mクラスの同じ年代の大きな古墳です。長方形に2重に埴輪が囲んでおります。
 私は建物がメスリ山古墳の長方形の埴輪囲いのように柱をぐるりと立てておったんじゃないかと考えました。それを図にしたのが12番です。
 黒丸は立て並べている埴輪列の中の、大きな埴輪の所だけを黒丸にしたんですが、埴輪の列がきれいに筋を通して行儀よく並んでおります。

 建物を建てるとき柱はきれいに並べないといけません。上に屋根を乗せないとけませんから。屋根をきれいに乗せるためには、行儀よく一列に柱を並べるんですよね。それと同じような配列で埴輪列の中の太い埴輪がきれいに並んでいます。埴輪で建物があったことを表そうとしているんじゃないかと考えました。したがって今回見つかった桜井茶臼山の柱痕跡は、建物の柱なんだろうと考えたわけです。
 建物だと考えたもうひとつ根拠は、柱の深さが120cmほどあることです。もし、ただの柵だったらそんなに深く掘る必要なくて、せいぜい50~60cmでいいのです。それを120cmも掘っているということは、屋根の重さを支えるため深く掘ったに違いないと思っています。

 それで11番のような復元図を考えたわけです。調査をした橿原考古学研究所は「屋根はない」というふうに考えまして13番のような柵を復元しています。こういうものが古墳時代前期の4世紀に出てきたわけです。それより前には無かったのかといったら、同じようなものがありま
した。

 それが14番以降の資料になります。15番のところに1957年に発掘した加茂遺跡(川西市)の方形周溝墓という弥生時代のお墓の角に柱穴がいくつか出てきました。1957年といえば50年ほど前で、私も今より50歳若かったということです。大学を卒業した次の年です。そのとき調査を担当して、「弥生時代のお墓の上に建物があったんじゃないか」って、その当時は誰も考えておらない訳の分からんことを考えて、先輩に言ったら「何思っとんじゃ」とかいうて先輩に怒られました。私個人にとっては、記念すべき川西市加茂遺跡の方形周溝墓です。これはぜんぶ掘ってませんでしたから、証拠不十分ということで当時は自信はもてませんでした。

 それからしばらく経った1966年に調査した田能遺跡(尼崎市)の図面を26番にのせています。そこで古墳時代前期(4世紀)の方形周溝墓の溝の中から、長さが4mくらいの材木が2本並んで出てきました。この遺跡は柱穴が沢山ありすぎて、どれがどの建物に伴うものかさっぱりませんでしたが、建築部材が出てきたことによって、やっぱり建物が墓の上にあったんじゃないか、ということを加茂遺跡から10年経ってから改めて思いました。

 それからだいぶ経った1990年。16番の資料をみてください。島根県の出雲大社の近くの西谷3号墓という4隅が出っ張った四角いお墓の上から4本柱に副え柱がついた8本の柱穴が出てきまして、16番に復元されていますような建物が島根県教育委員会によって発表されました。
 ようやく日本で考古学をやっている人たちがお墓の上に建物があるいうことを認識した調査です。その2年ほど前の1988年に古墳の上に柱が立つことをまとめた『古墳立柱』っていう論文を書きました。(14番)
 それ以降、勝山古墳(奈良県桜井市)から長さが2mくらいの柱そのものがごろごろ転がってたくさん出てくる、そういう例が増えてきました。(25番の写真)
 どこかで確かな事例が出てくると考古学の人間は「実は俺のところにもありました」とか言い出すんです。それより前だと「おかしなこと言うたら先輩に怒られる」という感じで、実際にはあるのに「う~ん、もうひとつわからんなぁ」といゆう感じで、じっとしてる、という悪い癖があるんですよね。

 次の21番の資料をみてください。ホケノ山古墳(奈良県桜井市)の資料です。棺を納める施設で図面の左の網をかけているところが木棺の部分です。その外側に黒く塗っている柱、4本柱と棟持柱。その外側に木の囲いと石囲いがあるという。橿原考古学研究は石囲木槨という新しいお墓の構造がわかったという発表をしたんですけれども、埋葬施設の中に4本柱を持っているなんてことは初めてですね。埋葬施設の上に4本柱の建物を作ったに違いない、と考えまして22番のような復元図を作
りました。

 これも橿原考古学研究所は屋根をかけてなくて平ぺったい蓋だけを考えております。研究所の連中も面白いのはいっぱいおるんですけれども、まだまだ頭がかたいんですよね、私の方がめちゃくちゃすぎるんかもわかりませんけれども。(笑)みんな慎重ですね、よく言えば。
 ということで、お墓の中に三角形の切妻屋根を持った建物があるなんてアホなこと考えているのは、やはり日本中では私だけだろうと思います。(笑)

 しかし、そういうことを考える根拠が、今でてきているということです。そもそも、お墓の上に建物があるということはなんなのか?

 ルーツは中国です。中国では漢の時代(日本では弥生時代)からお墓の上に御殿のような立派な建物を建てて墓守りをするという、陵寝制度がすでにあって、ずっと続いております。
 似たようなものは、今の北朝鮮や中国の東北部(昔の満州)とかにお墓の上に建物が建っているのが現実に見つかっております。中国ではお墓の建物の設計図まで出てきています。銅の板に図面を書いていました。

 東京国立博物館の展覧会でも、中山王墓の銅板の図面が出品されていました。そういうことから、日本の弥生時代にお墓の上に建物を建てて被葬者を守るような考え方、中国的な考え方が思想として入ってきてるんじゃないか。ただし、それを受け入れた人はごく少数の限られた人だったと思います。それが古墳時代にだんだんと広まっていった。そんなイメージでとらえています。そういうことでお墓の上の建物というのは、これからどれだけ見つかるんだろうと思っています。

 発掘調査というのは、墓の中の遺体のある部屋を掘って鏡とか宝物をさがすというのが明治以来の調査で、昭和の初めくらいからようやく内部の構造を考えるようになって、そして戦後になって古墳の外側の堀の形とかを検討するようになったという歩みがあります。
 しかし、これまで古墳を発掘調査をする時に古墳の上に建物があって、柱穴が有るんじゃないかいう観点での調査は誰もやっておりません。そういう視点で調査をやってないから出ないんですよね。島根県の西谷3号墳でこれが出たことによって、ようやく気を付けて調査してくれるだろうと期待しています。
 「出雲の田舎から出ただけだ。そんなもの中央の大和政権がやってるわけない。」って、口では言わんけど心の中では思っているフシがあります。(笑)

 でも箸墓古墳のすぐそばにあるホケノ山古墳で柱穴が出たので、大和でもやっているのなと思い始めて、そしたら俺のとこにもあるかもしれん、とそういう妙な広がり方をこれからして、きっとあっちこっちでいっぱい見つかってくるだろうと思いますよ。
 残念ながら兵庫県ではまだです。兵庫県は大きな古墳の調査は、控えておりまして、あんまりやっておりませんから出てきてないのだと思います。

 もし大きな古墳を発掘調査する機会があったら、ここ(考古博物館)の連中はみんな頑張って見つけてくれるでしょうから、柱穴一本見つけたら「金一封」なんて、えらそうなこといって、見つかったらどうしようかと思いますけど(笑)
 見つかったら喜んで大酒盛をしたいと思います。
 ということで終わります。
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.16」
資料 関連資料
備考 ※関連資料内の最初の2ページは、前回vol.15と同様のものです。
 後編vol.16で追加された資料は、関連資料内3ページ目からです。
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