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平成21年11月18日
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.17」
もったいないので公開します!

石野館長が、夏の終わりに当館ボランティアのために語った
「ここだけの話」です。

今回のテーマは「おのころ島(沼島・ぬしま)のはなし」です。

内容 「おのころ島(沼島・ぬしま)のはなし」

 今日は、おのころ島の話です。
7月末に考古楽倶楽部の人たち(当館の博物館ボランティア)と淡路の沼島へ行ってきました。僕はずっと奈良におりながら「沼島へ一度行きたいなぁ」、まあ「ハモを食いたい」という事が最初かもしれませんけれども(笑)、行くならやっぱり夏かな。そんなこと思ってました。(笑)

 なぜ、おのころ島かという、本当の話を少し話したいと思います。
 資料のいちばん最初に古事記の文章を載せていますけれど、皆さんも何回か聞いとられる話かと思います。神様が現れて日本の国々を生んでくれた、創ってくれたっていうお話があります。そのお話の神様は伊邪那岐命と伊邪那美命。伊邪那岐が男性で伊邪那美が女性ですね。2人の神様が「天の沼矛を賜ひて」とあります。

 矛とありますが、これは弥生時代の青銅器で、握り所が少し袋のようになっていて、そこへ長い柄をさして槍のようになる武器です。九州に多いものですね。弥生時代の矛型の武器は九州に多いんです。剣型とか刀型というのは関西にもあるんですけれども・・・
 いきなり神話で弥生時代に九州に多いその矛が出てくるという。その矛をもらって天の浮橋に立って、まあこれは天上にある橋ですね。そこのところに立って下の海をかき回して「こをろ(塩)」を「こをろこをろ」とかき回したという、なんかそんな音の感もでてきますが、でそうしましたら矛の先から滴り落ちた塩が重なって島となった。それでこれを「おのころ島」と、「おのころ島」っていうのが出てきます。

 その「おのころ島」がどこか?っていうのは、神話の話ですからどこでもいいようなもんですけれども。
 次に淡路島に神様は天から下ってきまして、天の御柱(みはしら)をたてて、八尋殿をつくったと。

 大きな柱をたてて、そして大きな館をつくった、ということです。この天の御柱ていうのも、これもあちこちで見つかってきてるんですけれども、館をたてるところの柱の一番太い柱のことです。今でも大黒柱ってありますけれども、発掘調査などで見つかっている妙な柱っていうのは例えば九州で吉野ヶ里遺跡で、鳥居状の柱がお墓の周りにあるとか、それから同じ時期に福岡県の平原(ひらばる)という10m程度のお墓から鏡が40面も出土するような凄いお墓があるんですけども、年代は3世紀の邪馬台国の時代ですが、墓から10mくらい離れたところに太い柱を建てた穴がみつかっています。

 テーブルくらいの大きさの長い穴をスロープ状に掘って、電信柱みたいなものを滑り込まして柱を建てたような、そうでもしないと建たないような、太くて長い柱を建てた痕跡がでてきています。今でも柱を建てるお祭りといえば長野県の諏訪大社なんかで御柱祭っていうのをやっていまして、7年にいっぺんの凄いお祭りがあります。そういう柱に対する信仰っていうのが結構あるんですけれども、それがここに出てきます。これもどちらかというと関西よりは九州、まあ、あちこちにありますから、ありますけれども、そういうものがいきなり出てきます。こういう古事記とか日本書記が作られたのはご承知のように飛鳥時代から奈良時代にかけてですけれども、こんなふうにまず記録されてます。

 そしてその後伊邪那岐命さんと伊邪那美命さんは結婚しまして、次々子どもを生んでいったというふうに書いておりまして、最初に生んだ島が淡路島であり、その次が伊予(愛媛県)をはじめとする四国、その後ぐるりといきなり日本海へ行ってしまって出雲の沖にある隠岐島を、その次が九州筑紫、それから今度は、朝鮮海峡にあります玄界灘にあります壱岐島と対馬、それから日本海を北の方へいって佐渡そして最後に本州島の秋津島。ぜんぶで八つあるので日本の国を「大八島国」と呼んだという物語です。

 これについては神話をやってる人たちがいろいろ研究してますが、考古学の世界ではやっぱどうしようもないんですね。なにせ神様のやっている事ですから。その話が飛鳥、奈良時代に記録されたということは事実なんですね。その背景になんか歴史的な事実がちょっとでもあるんではないだろうか?ということを考えているわけです。

 多くのひとは塩を「こおろ、こおろ」かき回したっていうのは、塩作りの作業が基になってるんじゃないか、ということで、5番目にある資料を見て下さい。淡路島では塩をつくった遺跡がたくさん出てきています。年代は古墳時代ですけれども、小さな薄い土器のカケラが、海辺から山のように出てくる。この展示場でも、貴船神社遺跡などの製塩遺跡の出土品が並んでますが、発掘のときには大量にでてきます。海水を濃くした塩水を煮るんですが、そのときにかき回して、だんだん固まっていくんですね。そういうことが話の基になっていて、淡路に昔からあった物語が背景にあるんじゃないのかな?ていうふうなことが言われております。その情景を5番のように絵にしてるわけですけれども、製塩遺跡のイメージというのが6番にあります。

 それが淡路で何処にどんだけあるかていうのが2番から3番の淡路島の地図で、点々打っている所、洲本からみなみ淡路市、それから北の方の淡路市の地域など淡路島のあちこちにいっぱいにあります。で沼島はどこかというと、淡路島の地図の下の端っこに「沼島(ぬしま)」をあげております。
 この間、沼島に行ったときに、今、回しました資料(資料4番のカラー原寸写真)、こういう妙なものがお寺にあります。おのころの山の上に神社がありまして、そっちの方へみんなは登りに行ったんですが、僕はサボって村の中をうろうろしていました。確かに沼島にはこういう妙な石の道具がお寺にあるということは聞いておりましたので、それを是非見たいなと思っていましたが、どこにあるかもわからんのでとにかく行ってみようと。

 役場の出張所みたいな所で、同行してくれた橋爪君が聞いてくれてですね、そこのお寺だっていうことがわかりまして、行ってみたら住職が居ってくれまして、連絡もしてなかったんですけれども、「見たい」言うたら、「どうぞ」いうことで座敷に上げて貰いました。皆さんが汗かいてる時に、こっちは涼しい座敷でのんびり見せてもらってました(笑)。

 これ、石で造っているんですけど、22cmあります。「どこかに行く時は、カメラ、物差し、メモ帳は必ず持たないかん」と先輩からも先生からもしょっちゅう言われていたのに、またサボって物差しは持っていませんでした。やっぱりハモのほうが頭に多かったのかもしれませんが(笑)。この数字がどうして分かったのかいうと、掌を精一杯横に広げて図ったんです。私の場合、親指の端から小指の先っちょまで、ちょうど22cmなんです。それで、現物にこう当ててみたらぴったりで、あ、これはこの数字で良いんだと。厳密にいえば21.7cmぐらいかもわからんですけれども。まあ、それくらいであることがわかりました。

 実は9番に同じようなものが写真あげております。これは沖ノ島っていう淡路の一番南の端っちょに伊毘という村があって、その沖に島があります。
 鳴門大橋を渡る手前、四国の方を向いて右手にその島が見えます。その島へ学生時代に船を出してもらって行ったことあるんですが、島じゅう古墳だらけです、6~7世紀の小さな古墳がいっぱいです。
 昔、一部調査されてまして、こういう変な石の棒がかなり沢山出ております。沼島の住職さんが言うには「子どもの頃はこういう石は20~30本あって、子どもどうしで、杭をさして遊ぶような、そうやって投げ合って遊んでました」と。それで「今どこにあるん?」聞くと、「今残っているのはこんだけや」って、2本だけなんですね。

 これが一体何なのか?ということは、全く分からんのですが、出てくるところが淡路島の南の方の海岸沿いの古墳だけで、他からは全くでてきません。大阪湾岸、和歌山でも、四国でも、岡山でも全く出てこなくて、淡路にしか出てこない。どうみても、これは海に関係がある道具なんだろうと考えてしまいます。岩にひっついてるアワビをおこすときの道具じゃないかとか。いろんな人が、いろいろ言っております。

 8番にあるのはこれは沖ノ島にある古墳のひとつなんですが、船の格好をしてます。だから淡路の漁師たちがこういう道具を使ってたんじゃないか。
私はこれはアワビおこしとかじゃなくて魚を捕る時の偽物のエサ、疑似餌ではないかと思っています。
 20cmの石に食いつくような魚はどんな魚かというと、クジラは食いつかんでしょうし、カツオもどうだろうか、みんなに疑われていますけれど、そうではなかろうかと、自分で釣りやったことないから本当の事はわからんのですけども。そういうふうなことを思っております。
おのころ島の話が今日のテーマなんですけれども、おのころ島へようやく行けたっていうことを、みなさんにお伝えしたいということもあるんですが、本当は何故、神様が最初に創った島が淡路島なのかっていうことが、ずうっとこう疑問になっていました。

 神武天皇が九州から瀬戸内海を通って大和を征服して大和朝廷を作ったと古事記、日本書紀には書いてあるんですね。それだったらなんで神話を、最初の歴史の本を作るときに、最初に神さんが創った島を九州ですと、あるいは対馬ですとか、壱岐ですと言わなかったのか。何で1番が淡路島で、2番目が四国、そしてぐるぐるあちこち回って、そして九州っていうことになったんだろうか?という疑問がずうっとあって、そのおのころ島へ行ってみたいっていう希望がありました。

 実は候補地は他にもありましてね、和歌山の友ヶ島だとか同じ淡路島のずっと北の方の岩屋の絵島であるとか、他にもあるんですが、どっちにしても淡路島の周辺です。
 「答えはどうなってるの」と問われたら答えは無いんですけれども、のちの応神天皇とか仁徳天皇の話の中で、仁徳天皇の奥さんに磐之媛っていう、すごいやきもち焼きで有名な奥さんがいるんですが、天皇の浮気がばれて、もう私は奈良県の葛城の実家に帰る言うて淀川をさかのぼって、山城国の宮に帰ってしまいました。仁徳天皇が、いくら謝りに来ても、「絶対帰らん。大和に行くんだ」という話があります。そんな嫁さんをもっておりながら仁徳さんは淡路に狩りに行くと称して岡山に浮気行っとるんですがね(笑)。

 その物語から考えられることは、凄いやきもち焼きの奥さんでも、旦那が淡路へ行く言うたら、「あ、そうですか」と思うくらい、淡路島は大和政権にとって、大王の領域で、いわば庭みたいなものだという意識があったんじゃないのか。そういう意識があったから仁徳天皇の話は古事記、日本書紀が作られるまでには150~160年しか経っていない話ですが、物語としては伝わっている。例えば明治時代の西郷さんの話は、なんとなくみんな知っています。150~160年前の昔話っていうのはごく最近みたいになんとなく伝わっています。そういう物語から考えますと、淡路島っていうのが大和・河内の政権にとっては玄関口にあたるということが背景にあるんじゃないのかなと今は思っています。

 次は、おのころ島のもうひとつの候補地である和歌山の友ヶ島にも行ってみようと思っています。先日も沼島から友ヶ島に船で行きたかったんですけど、「定期便はないよ。行きたかったら船をチャーターしないと無理だ」ということで断念しました(笑)。

今回は素直に帰ってきましたが、今度は和歌山側から友ヶ島へ行くつもりです。そこには神さんの島と書いた島があって神社もあるようですから、こういう変な道具があるかどうか。それから、塩作りがどれくらいあるのかとか、そんな事を、魚でも食いながら見てこようかと思っております(笑)。
今日は、これで終わります。
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.17」
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