兵庫県立考古博物館
当館について
展示と活動
利用案内
もよおし案内
HOME
> ひょうご考古学情報 / ひょうご考古学トピック
平成22年01月09日
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.19」
もったいないので公開します!
石野館長が、当館ボランティアのために語った
「ここだけの話」です。
今回のテーマは「弥生の墓屋—神戸市 玉津・田中遺跡—」です。
内容
「弥生の墓屋—神戸市 玉津・田中遺跡—」
ここ2週間ほど中国の砂漠の中に居て、久しぶりなので今日がトークサロンの日だというのをコロッと忘れておりました。(笑)それで慌てて出てきた次第です。
タクラマカンっていう砂漠、海岸部の上海からですと約5000㎞。日本の北海道から鹿児島までは1300~1400㎞じゃなかったでしょうかね。その4倍の距離がある砂漠の中に漢の時代(日本で言うと弥生時代)の建物の柱とか窓枠とか壁とかが建ったまま残っています。それを一度見たいと学生時代からずっとあこがれていました。昔ですと個人ではとても行けない。調査で行く機会があったんですけど、そのときは残念ながら行けませんでした。たまたまツアーがありまして参加したんですけど、メンバーは9人でこんなツアーに参加する人はどんな人かと思ったら、自分のことは棚に上げていますが、案の定、奇人変人の集まりみたいなもので(笑)女性パワーが圧倒的に凄かったです。参加した9人のうち男性が4人でした。それでも今回は男性が多いっていうことでした。
シルクロードに憧れている女性が多いんですが、会話を聞いてますと砂漠の遺跡は200㎞離れてこんなんあるとか、次は500㎞向こうとかにというふうに話がはずんでいます。何べんも行ってるんだそうです。「女性パワーってすごいな」てことを改めて思いました。
という事で今日は、日本の弥生時代の話です。ここの博物館の展示室のつきあたりのところに巫女さんのような人が銅鐸を掲げています。その人の周りに壺がいっぱいあって、全部穴が開いてますね。家で使う壺だったら、なんで穴開けてんだろうか?という疑問が湧いてきます。不思議な壺ですけれども、そのコーナーに関する話です。
その壺が出土した玉津・田中遺跡は神戸市西区にありますが、ほとんど明石に近い場所で、そこを兵庫県教育委員会の埋蔵文化財事務所(考古博物館の前身)が何年間もかけて発掘しました。現場にずっとおって報告書を書いている篠宮君、彼が一生懸命報告書を書いてますけれども、その遺跡の概要が資料の1番です。住居群とお墓がそれぞれ丸で囲んでありますが、日本国内で弥生時代の遺跡は何万ヶ所もあります。住居がかたまってあるところ、あるいはお墓をかたまって作ってるところ。そういう居住地域と墓地が見つかっている遺跡は日本中でもかなり沢山あります。
そういった意味では珍しくはないんですけれども、住まいとお墓が両方セットで見つかったというのは、国内で5~6ヶ所ぐらいしかないんじゃないでしょうかね。例えば大中遺跡では基本的にお墓はみつかっていません。ここには住まい用の竪穴住居がたくさん見つかってますけれども、ここに住んでおった人が亡くなって、その人たちのお墓がどこかというのは謎です。
玉津田中遺跡では上の丸のところが墓、下のU字型に書いてるのが建物、両方に川が流れてまして、その下の方の200mくらいの範囲に建物が20とか30棟見つかっておる。上の方には弥生時代の方形周溝墓というお墓がある。その溝の中に、木で作った棺を何体分か入れてるという、そういうお墓です。
それで今日のお話ですが、資料の住まいとお墓の中間に矢印で墓屋と書いています。考古学の世界で墓屋っていう言葉は基本的にないんですけれども、今でいうと、墓地の横にあるバケツが置いてあったり水道があったりするお墓参りの人たちのための建物(施設)です。弥生時代の墓屋が、極めて珍しく見つかっています。その建物から穴をあけた壺が “どおっ”と出てきております。
発掘された当時、私は奈良県の橿原考古学研究所におりましたけれども、「変なものが出てきた」という話を聞いて見学に行きました。そうしましたら、竪穴住居ではなくて、平屋の建物なんですね。柱を地面に突き刺して、7m×3mくらいの長方形の真ん中に区切りが有って、片方の部屋にはイロリがあって、もう片一方には土器が10個ほどゴロっと転がってた。
弥生時代の平屋の建物の床面が残っている遺跡なんて日本のどこにもにありませんでした。後の時代に削られて、どんな間取りがあったかなんてのは、わからない。それなのに兵庫県で平屋の建物の間取りが二つに分かれていて片一方が男性の部屋で、壺がたくさんある方が女性の部屋であろうと、実は論文を書いたんです。
ところが、10年ぐらいたってからようやく報告書が出まして、読んでみたら壺には全部穴が開いている。穴が開いてる壺を家の中で使えるわけない。偶然穴が開いたんじゃなくて、わざわざ壊して開けている穴なんです。建物の場所を見たら、住まいとお墓との中間地点にある。これはお墓用の建物であると確信しました。
だから、発掘調査の時に現場を見て喜んで書いた論文は皆嘘になってしまいました。嘘は訂正せないけません「あれは間違いでした」と。「内心、早く報告書出してくれれれば良かったのに(笑)」と思いましたけれども。自分が発掘現場を見て、喜んで錯覚したのがそもそもの間違いなんです。(笑)
今から2100年ほど前の弥生中期の終わりぐらいに、お墓専用の建物を作ってる村があった、という事が今日のテーマになります。
2番目が発掘中の写真です。私が見学に行った時に撮った写真で、線で囲ってる長方形の範囲。作業員さんが2人作業してますけれども、右側のところにぽこぽこと壺が転がっています。これが今並んでる壺ですね。現場で見た時は、穴があいているのは、「壊れたんだな」と思ったんですね。ところが接合・復元してみたら、偶然壊れたんじゃなくて、ぜんぶ壺の胴のところ穴があいている。発掘担当者もその段階で初めてわかったんじゃないでしょうかね。なんだこれは、壊れてるんじゃなくて、開けてるんだということが分かったんだと思います。
だから、遺物整理の接合作業というのは非常に大事でして、たまたま壊れてしまって欠片が無いのか、それとももともと壊していて、そこの部分を捨てているから出てこないのか、というのが大事なんですね。それから、土器の割れている面を見て、割れている面が非常に新しいか、あるいは時間が経過して風化しているのか、というのは見てすぐわかると思いますけれども。そう言う違いがあると思います。
壺がころこころ転がっている左側のところに全然ものが無い場所があります。幅30cm、長さが4mくらいの板が一枚転がってまして、私は発掘現場に行ったときに、この左側の方は家財道具が無い場所というのは、今の家でいうと客間みたいなものだなと思いました。
家の中には箪笥があったり、戸棚があったり、水やがあったりいろいろもの置いてます。しかし、お客さんを迎える部屋は、あまり物を置いてなくて座敷机がひとつ、まあ床の間があってというぐらいの感じかもしれません。そう考えた時に現代の住まいから想像して、壺がいっぱい有る方は台所で、女性の部屋。何も置いてないところは男性の部屋で、たむろして、だべってる。あるいはお客さんを迎える。そういう部屋であって、発掘調査で出てきた今から2000年前の平屋の建物は、2つの部屋の使い分けを明確にしている極めて珍しい例である。ということを書いたんですが・・・・、それは間違いでした。
そしたらそれは何かというと、お墓用のお祭り、遺体をお墓に運んできて埋める前にこの建物の何にも置いていない所に、おそらく棺を置いていろいろ儀式をやったのではないか。そして穴あけた壺を持ってきてお葬式の儀礼をやって墓地に埋めるという。そういうふうな建物なんだなと、その拡大写真が3番です。こんなふうに転がってました。この写真の真ん中の下の所に丸く二重丸があって、真ん中が黒く写ってますが、そこに柱が立ってたんです。弥生時代の平屋はもともとは沢山あったと思うんです。竪穴住居っていうのは地面を50cm~1m堀込んでそこを床にしてる。一方、平屋っていうのは地表面をそのまま生活する面に使ってる。そこへゴザを敷いたりして使ってるんですけどね。平屋はその後の時代、奈良時代とか平安時代とか鎌倉時代とか、新しい次の時代の人がその土地を使うために削ってしまっていることが多い。だから弥生時代の2000年ぐらい前の建物の平屋の生活面がそのまま残っているいうのは、極めて珍しいことです。
数年前に大阪府の八尾南遺跡で後の時代に全く削られずに埋もれたままの弥生の村が見つかりました。家とお墓の関係もわかるような遺跡がありますが、そういう非常に珍しい例のひとつが兵庫県の玉津・田中遺跡なんだということです。
今度、博物館へ誰かをご案内するときには、「玉津・田中遺跡っていうのは凄いんですよ。壺をちゃんと見てください。」、「ここに穴が開いてるでしょう、こういう意味があるんですよ。」と説明して頂くと、見る人も「ああ、そうなのか」と憶えて帰ってもらえると思います。
今日は、これで終わります。
ありがとう。
資料
ページトップへ
埋蔵文化財保護の手引き
入札情報
お問い合わせ
サイトマップ
リンクリスト
サイトポリシー