兵庫県立考古博物館
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平成22年02月27日
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.20」
もったいないので公開します!
石野館長が、当館ボランティアのために語った
「ここだけの話」です。
今回のテーマは「女王ヒミコの王宮か」-奈良県纏向遺跡の居館-です。
内容
「女王ヒミコの王宮か」-奈良県纏向遺跡の居館-
今日が大中トークの22回目。2週間ほど前から奈良の纏向遺跡(まきむくいせき)で「卑弥呼の館が見つかった」ということでひと騒ぎありました。新聞でいろんな事を喋ったような気もしますけど(笑)そのへんの話を今日はさせてもらいます。
纏向は奈良盆地の東南にあります。そこに大和古墳群(おおやまとこふんぐん)という3世紀から4世紀の古墳群があります。3世紀いうのは邪馬台国の時代で、その後の大和政権の時代が始まる4世紀にかけて100mを超える大きな古墳が25~26個かたまっている地域です。その南の端に三輪山という神の山がありまして、今もその下の大神神社(おおみわじんじゃ)でお祭りが続いております。そういう地域を1971年から発掘調査を続けていて、38年目で大きい建物が初めて見つかりました。まるで嘘のサンパチのように見つかりました。(笑)
その場所が資料の1番の地図の黒っぽく網がかかっている所にあります。三輪山の麓から出て南に流れる纏向川と、北に流れる大和川の2つの川に挟まれた2kmぐらいの三角形の範囲の中にある地域です。
その拡大図が2番目です。今回の大きい建物が見つかったのは2番目の地図の真ん中あたりで丸く囲んでる場所から見つかりました。
この地域には2番の地図の右上に、古墳時代前期(4世紀)の300mクラスの景行天皇陵と言われている渋谷向山古墳、真ん中の下側には3世紀末の280mの箸中山(箸墓)古墳があります。まあ、この箸中山が卑弥呼の墓ではないかと考えてる研究者はここ十数年増えております。
違うんじゃないかと僕は思っていますけど。
纏向遺跡は西暦180年代の後半に突然現れて、そして350年頃に突然消えます。突然現れて突然消えるいうことは、自然な農村ではなくて、政治的につくられた町ではないのか、という事を34年前に出した報告書の頃から考えています。
纏向の報告書は、当館の「考古学情報プラザ」に置いてあると思いますから、また観て下さい。纏向には全長100m前後の古墳が、幅5mくらいの直線的な運河の交差したあたりに3つ、ちょっと離れてもう1つかたまってあります。
箸中山の右側の所に丸がいっぱいありますが、これは全長80m前後の古墳がかたまっているところですが、その中の1つが、7~8年前に調査されたホケノ山古墳です。
今回見つかった所は3番の地図です。太い線で点々で囲ってます範囲が今回見つかった建物群の範囲で、南北で100m東西150mの長方形区画の中で建物が見つかりました。
この範囲は私が今から34年前の報告書に「ここには館がある」とちゃんと書いていまして、我ながら凄いなと思っていたら大間違いでして、この範囲を書いた事は確かですけれども、柿本人麻呂の館推定位置として書いていました。(笑)
なぜか言いますと、この長方形区画の上を流れている“旧河道”と書いておりますけれども、ここに飛鳥時代の河がこの幅の中に見つかりました。それで、万葉集を専門にやっている先生に教えてもらいましたら、今現在、箸中山古墳の南側を流れている纏向川では纏向のせせらぎを聞きながら由槻ヶ岳が見えるような歌はとてもうたえない。歌と状況が合わないということが不思議に思っていたんだけれども、発掘調査で見つかったこの川だったらぴったりだと。ここなら川のせせらぎを聞きながら纏向山とか由槻ヶ岳がよく見えるという、5首か6首ある人麻呂の纏向万葉の歌にぴったりです、という事を教えてもらいまして、ここに地形上長方形の区画がとれますんで、中の発掘はして無かったんですけれども、きっと人麻呂屋敷だろうとして報告書に書きました。
今回の調査では人麻呂さんじゃなくて卑弥呼さんだというオチになったんですけれども(笑)。そういういきさつがあります。
今回の建物群ですけれども4番に復元図があります。神戸大学の黒田龍二先生という建築の先生が描かれたものです。実際に見つかったのは7番の図面です。今年の2月の調査から桜井市埋蔵文化財センターが初めて学術的な調査を始めていました。
私が最初やった第1回目の調査から38年間に、この夏の調査で166回目、橿原考古学研究所の調査の後を受けて桜井市が家の新築や水路の改修などに伴って地道な調査を続けた上で、ようやく今回大きな建物が見つかりました。
きっかけは2年前に当選した現在の桜井の市長さんです。選挙の公約で卑弥呼の館を見つけるって言ったんだそうです(笑)それでとにかく学術調査をやりはじめました。しかし桜井市というのは奈良県の中でも有名な貧乏な町でして(笑)、訳のわからん発掘にお金を出すのかと反対もあったと思いますが、一千万円を超える発掘基金を一般公募で集めましてそれをもとにして、県の補助も国の補助も受けてないで市が単独で発掘調査を初めました。その1回目が今年の2月でした。
兵庫県でもこんなかたちの調査をやりたいもんやなと思いますが、基金は集まるでしょうか?
7番の地図の「A」「B」「C」と書いてる建物があります。「B」の建物は30年前に橿原考古学研究所におります寺沢薫さんがすでに見つけておった建物ですけれども、その建物を手掛かりに2月に発掘調査が行われました。そしたら「C」の建物の一辺だけが見つかりました。それをまた手掛かりに昔の調査した「A」の図面を桜井市の橋本輝彦さんが調べなおしたら柱穴が3本ほど復元できた。
その方向が「B」と「C」の建物とぴったり合うということに、気づいたんですよね。一直線に建物が3棟並ぶといっても、大きさは5m×6m程度のこの部屋よりも小さくてどこにでもあるような掘立小屋みたいなもので・・・、そんなものが卑弥呼の宮殿なんて誰も思わないわけですが、一直線に並ぶっていうのがミソで、3世紀の邪馬台国の時代では日本中どこにもありません。
意図的に一直線に並べたのか、偶然なのか、その辺はこの今回調査をやった「D」の地区で明らかになるのではないかと思っていました。この夏以降調査が始まったので、家から自転車で25分ぐらいなので、のんびりと自転車こぎながら時々見に行ってたんですが、柱が3つ4つ見つかった頃に、まず驚きました。
7番の地図をみてください。黒塗りが四角い柱穴なんですけれども、一辺1mぐらいの四角い柱穴が3つ4つきれいに並んでいました。弥生時代から古墳時代にかけては四角い形の柱穴なんてものは有り得ないんですね。古墳時代の中頃から6世紀になるとたまにはあるんですけれども、弥生時代から3世紀の邪馬台国の時代にはありません。
これは間違いではないか?飛鳥時代とか奈良時代の新しい建物ではないだろうか、と発掘の現場でしつこく疑って担当者に聞いたら、柱穴の一部が溝で切られてまして、その溝に庄内式の土器(3世紀)が入ってるという答えが返ってきました。そうなると、柱は飛鳥時代の新しいものではなくて、庄内期と同時期か古いものだということがはっきりしました。
これはえらい事やということで地主さんに頼んで周りを広げることになったということです。地主さんが自然農法で草を育てておられたかたで、周りの草は一切踏まないでくれという条件で幅の狭いトレンチを設定して調査が始まりました。
そしたら四角い柱穴が4~5個かたまって出てきて、どうしても範囲を拡張して調査したいが、市のお金が切れてきて「もうこの建物の規模、わからんけれども今回はこれで終わりたい」って言ったら怒られたそうです。ここまでやって止めるとは何事やと、全部掘れっていう(笑)だからね、大型建物の発見はその人のおかげですよね。
ただその人は自然農法のリーダーで、本を出しておられる方で、仲間の自然農法をやってる人たちは怒ってるそうです。あれだけ苦労して養生した土地を、卑弥呼か何か知らんけどという(笑)ところですよね。
本当に怒られて当然の事だと思うんですけれども、その人のおかげでこの建物が見事に現れました。
7番の地図で前に見つかった小さな3棟の建物の真ん中の線と今回見つかった幅が19mもあるような極めて大きな建物の真ん中の線がぴったり一致した。これは測量をし直してその事を確認しました。そうなりますと3世紀の段階に一直線に建物が並ぶなんていうのは初めてで、飛鳥時代以降だったらありますけど、弥生時代、古墳時代ではまったく初めてです。それから四角い柱の穴をきれいに並べるのも弥生時代から邪馬台国時代にかけては初めてです。
この建物が本当に古いのかどうかということを、現地を見てない研究者で疑ってる人があると思います。さらに新聞とかで庄内式土器は4世紀だって言ってる九州説の人がいます。土器の形式はわかったが、しかしその年代は新しい、という考え方なんですね。だから考古学の立場で両方がこれから大いに議論したら良いと思います。
これから後どうなるのかという事なんですが、この建物群が果たして卑弥呼を助けて政治を担当しておる男弟(だんてい)の政治的な空間なのか、あるいは女王卑弥呼は祭祀を担当していましたから祭祀的な祭りをやったような建物配置なのか、がこれからの問題です。
今のところどっちや?と言われたら、今回見つかった場所の近くに祭祀、祭りの場があるので、やっぱりこの館っていうのは卑弥呼、もしここが邪馬台国であればですね、女王・卑弥呼の祭祀空間ではないかと思っています。
そうすると、政治的な空間、男弟の空間はどこかといえば、同じぐらいの規模で同じ方向に、これ東西に主軸が揃ってるんですが、東西に主軸を揃えた空間が今3番の地図の上1.5cmぐらいのとこ、あるいは下1cmぐらいのところに並んであるんじゃないのかと想像していますが、そういう手がかりが初めて見つかったいう事が一番大事だと思います。
数日前、新聞取材がありまして、「これで邪馬台国は決まりですか」いうから、「いやいや決まりません」と言っときました。
九州から西日本にかけて弥生時代の大きな集落には2つの区画があるということがあちこちでわかってきました。佐賀県の吉野ヶ里もそれから愛媛県の樽味四反地遺跡も、それから大阪の尺度遺跡も、それから石川県の万行遺跡でもそれぞれ2つの区画があるいうことがわかってますから、これと同じように大きな町の中で2つの屋敷を持ってる所が今後きっと見つかってくるだろうと予想してます。
それは弥生時代から邪馬台国の時代にかけてヒメヒコ制という男女がセットになって政治と祭祀を担当してる、そういう体制が少なくとも西日本全体にはあったんじゃないのかな、と考えておいた方が良いと思います。
日本列島の各地域で今まで飛鳥時代の建物だと言ってたのが今回の発見によって、「あれ?もしかしたら弥生時代じゃないのか、あれも邪馬台国の時代のはないか」という例があっちこっちであがってくる事を期待してます。
そういう実例がいくつかあります。考古学の人間も慎重と言えば慎重なんですけど、「弥生時代や邪馬台国の時代に四角い柱穴が一直線にきれいに並んでいる」なんてことを言ったら先輩からお前はアホかと、そういう時代が私の学生時代からずうっともう50~60年続いています。遺構の上面が全部削られて、柱穴があるだけだったら、こんなにきれいに並ぶ建物は飛鳥以降に違いないと報告書に書いてた遺跡など、う~ん、今回の調査をきっかけにして再検討があって3世紀にさかのぼる例がきっとでてくると思います。
というのは、私は20数年前に九州行った時に「5世紀のすごい建物です」と言われて帰ってきたあと奈良県の・鍵遺跡で弥生時代の2階建ての建物の絵が描いている土器片が見つかった途端、「実はあれは弥生でした」っていう連絡がきたことがありました。
ですから、きっと今度もあちこちから「あの四角い柱穴の建物は邪馬台国時代のものでした」という声が出てくる事を期待しています。
したがって邪馬台国は決まらない。
決まらない方がこれからも楽しめる。
と、いうことで今日は終わります。
どうもありがとう。
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