兵庫県立考古博物館
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平成22年03月02日
「石野博信、考古学ここだけの話 vol.21」
もったいないので公開します!
石野館長が、当館ボランティアのために語った
「ここだけの話」です。
今回のテーマは「邪馬台国時代の長刀-内場山墳丘墓」です。
内容
「邪馬台国時代の長刀-内場山墳丘墓」
大中トークの23回目です。奈良県の纏向遺跡で大きい建物が見つかって、邪馬台国問題がちょっとにぎやかになってきましたんで、これからの3~4回くらいは兵庫県の資料を中心に邪馬台国時代のことを続けてみたいと思います。
今日は当館のテーマ展示室に篠山市の内場山墳丘墓から出土した鉄製の長い刀がありますが、それがどういう意味を持つのかということを話たいと思います。
内場山墳丘墓が、調査されたのは25年ぐらい前(1985年)でしょうかね?当館の学芸員の中川君が中心になって報告書が出ています。そこは内場山城という城跡に重なっておりました。墓の大きさは全長20mぐらいでそんなに大きくないんですよね。弥生時代のお墓には方形周溝墓という四角いお墓がありますが、内場山のその墓は丘の上にあって方形台状墓と呼ばれる類のものでしょう。大きさで大・中・小にすると大の部類ですね。大が20mぐらい、中が10m、小が5~6m言うとこでしょうか。
ただし、特大いうのが弥生時代にありまして、佐賀県の吉野ヶ里遺跡とか、愛知県の朝日遺跡には全長40mぐらいのものがあります。内場山のものは弥生時代全体のお墓の大きさからいうと大型ではあるけれども特大ではないという。まあそういう大きさです。
そのお墓の中に埋葬施設が十数基あります。全長20m程度の墳丘に十数基のお墓がありました。その真ん中のお墓が大きく、墓の穴も大きくて7mぐらいあって、木棺は4m30cmぐらいでしたかね。かなり大きいです。年代は3世紀で邪馬台国時代ですね。この前話した纏向遺跡の建物の時期が3世紀前半って言ってますので、それくらいの時期のお墓です。そしてお墓に葬られた人のひとりが長い刀を持っていた。という事です。長い刀が3世紀代の邪馬台国時代にどれくらいあるのかと言いますと、非常に少ないのです。それが注目されるのは、下に手書きで、“ヒミコの「五尺刀」は”と書いていますが、これは卑弥呼が魏の皇帝から錦とか絹織物とか沢山のものを貰っていて、その中に五尺の刀を2本やったと魏志倭人伝に書いています。そして銅鏡100枚と書いています。100と2つだったら数の少ない方が貴重品でしょうね。書いている順番も刀の方が先に書いております。銅鏡は後から三番目程度です。卑弥呼の鏡といって大騒ぎしていますけれども、書いている順番からいうと銅鏡はランクが下の方ですね。当時の人たちの感覚からすると絹織物よりもランクは下という書き方です。刀は銅鏡よりはランクが上です。高級品だと思われる刀、五尺と書いていて、魏の国の一尺が24cmくらいなので五尺の刀は120cmほどになります。かなり長いですね。3世紀代に120cmの刀は1本も出ておりません。90cm以上のものを並べたのがこの右側の表なんですけれども、鳥取県の宮内第一遺跡、それからこの内場山墳丘墓。それから福井県の乃木山墳墓。というのが90cm越えてまして、あ、それから福岡県の左下ですね、図面の大きい方の図面の左下に、福岡県前原市の上町遺跡から出たものが1mを越えてまして(118㎝)、今のところ一番長いです。
そして3世紀の邪馬台国時代の長い刀はほとんど日本海沿岸から出ている。福岡県も玄界灘ですし、鳥取県、兵庫県、福井県、まあ兵庫県の内場山墳丘墓の場所は内陸部で、その意味では微妙です。内場山も昔の町ですね。合併する前は町で、川筋によっては日本海にもいくし、瀬戸内海にもいくと、言い換えますと日本海文化と瀬戸内海文化の両方を繋ぐ接点であるといえます。報告書を改めて読んでましたらお墓の上に壺などがいっぱい供えられているんですが、その壺を中川君が分析して、報告書には書いてますが、讃岐(香川県)で作られた壷とか、あるいは丹後(京都府)とか山陰地方で作られた器類、それから奈良・大阪の壷とか、いろんな地域の土器類が供えられています。お墓の上に土器類を壊してばら撒くというのは山陰地方の日本海沿岸の風習です。そういう点では、内場山墳丘墓に葬られた人、その一族というのは、どうも日本海文化の中にある人だったんじゃないのかな。珍しいものでは東海地方、名古屋地方の土器も出てますね。そういう非常に広い範囲の人達と付き合っていた地域の豪族の墓だと思います。
そういう人が長い刀を持ってる。これはまさにあの日本海文化だと思います。しかし、これらのお墓は、それぞれみんな小さいです。邪馬台国時代の一番大きい墓は奈良にあります全長280mの箸中山古墳(箸墓)とか、他に90m~120mぐらいの墓が20も30もあります。その中で卑弥呼が貰った刀という長い刀を持ってる人が日本海沿岸に多い。しかしそのお墓は皆小さい。全長20mといえば大きい部類ではありますけれども、100mに比べたら小さいですね。
邪馬台国時代のそれぞれの地域の王様クラスの人のお墓から出てくる。全国の王ではなくて、各地域の王クラスの人が持ってる。こういう刀類は、卑弥呼の鏡でもよく言われている話ですが、「邪馬台国の女王が中国の魏の皇帝からもらって、それを邪馬台国の言う事をきいた人たちに下げ渡した」とよく言うんですよね。
よく言うんですけれども、それはちょっとおかしいんじゃないのかなと思います。もしそうだったとしたら、20mクラスの墓じゃなくて、鳥取県にも同じ時期に60mの墓があります。今でいうと県レベルで一番偉い人に下げ渡してその地域を抑える。邪馬台国政権が抑えるというならまだ、ああそうかなぁと思うけど、それより下の郡単位いうくらいですね。播磨国のトップじゃなくて加古川のトップぐらいですかね。そういう人達がみんな良いものを持ってる。これは邪馬台国政権から貰ったんじゃなくて、それぞれの地域の人が直接魏の国、あるいは韓国へ行った結果として手に入れてるんじゃないのかということを、日本海沿岸の刀は示しているんじゃないかと思います。
右側の大きい方の図面の右下ぐらいの所に長野県根塚遺跡と書いた刀があります。これはちょっと図面が小さくて分かりにくいですが、握る方が下で、その握る所に渦巻きが2つひっついてます。これは韓国製です。朝鮮半島製のうずまき付きの鉄の刀が長野県の一番北から出てきております(ここも水が流れていく方向は日本海です)。ここも小さい墓です。小さいいうても20mぐらいですが、半島との交流があった人でしょう。邪馬台国時代の朝鮮半島製の渦巻付長刀は日本列島では但馬に一本と長野県に一本しかありません。豊岡市の妙楽寺墳墓群からも90㎝を超える刀が一本出ています。
そう考えていきますと邪馬台国時代の海外交流は、必ずしも政権中枢のみが貿易権を持ち、手に入れた絹とか刀とか鏡などを各地域の王に下げ渡すという形態ではなかったんじゃないかな。外交する権限は邪馬台国の女王が持っておったとしても、貿易権は、それぞれの地域の勢力が自由にやっていたんじゃないかな。そういう時代が邪馬台国の時代だと思います。
倭国連合の30ほどの国がそれぞれ独自に中国や韓国と貿易をやっていた、とういう時代じゃないのかな。というふうに思います。
左側の図面の、一番大きいのが内場山の刀で、握りの所が鉄の輪っかが付いてるいうのが特色ですね。素環刀と呼んでいます。
左側の図面の右下、これは大阪の上町台地の先端から出てます。太平洋沿岸ではこれ一本だけです。握りの所しか無くて刀身がないから長さがわかんのですが、輪っかの大きさから推定すると、やっぱり90cmは超えるだろうと思います。
素環の長刀が古墳時代にあった河内湖の入口にある崇禅寺という場所から出ております。これが邪馬台国候補地のひとつである奈良~大阪地域で唯一出ている長い刀であります。
ということで、3世紀の長刀はこれから大いに銅鏡と共に注目する必要があって、その中で但馬、丹後などの日本海沿岸のクニグニが果たしている役割が相当大きなもんだということです。
これで、終わります。
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