石の宝殿

★場所
高砂市阿弥陀町生石171
(「生石」と書いて「おおしこ」と読みます)
(JR宝殿駅から約2km、徒歩30分程度)
(生石神社のご神体で、駐車場もあります)
(ご神体ですが、すぐ近くで拝観できます)

★製作年代
飛鳥時代(7世紀)?
崇神天皇のころ(社伝)
(播磨国風土記<715年頃>には記載があるため、それ以前に製作)

★遺跡の種類
生産遺跡(国指定史跡「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」の一つ)

★遺跡の概要
宝殿山の標高約45mにあり、古墳時代から採石されている「竜山石(たつやまいし)」の岩山を刳り抜いて造られています。1石からなる直方体で、背面に屋根形の突起をもつ巨大な石造物です。

現在は生石神社のご神体(拝観料100円)として祀られています。

大きさは、以下のとおり。(【大手前大学2006計測値】による)
<長さ>
幅6.49m、高さ5.71m、奥行き7.39m(突起を除くと5.58m)
<容積>
203.5立方メートル
<重量>
約464.9975トン(比重2.285とする)

古くは『播磨国風土記』(715年頃)の中で、大きさと共に「作石」「大石」「形は屋の如し」と記され、風土記以前に製作されたものであることがわかりますが、目的については記されておらず、ただ製作年代は「聖徳王御世」(聖徳太子の摂政の時代)、製作者は「弓削大連」(ゆげのおおむらじ=物部守屋)であると記されています。
しかし、聖徳太子の摂政は593年~622年、物部守屋は587年には亡くなっていることから、風土記の伝承には年代の矛盾があるようです。

不思議な形態をしていることから、江戸時代には西国の大名たちが参勤交代の途中で参拝し、名所として広く知られていました。そして、多くの人が石の宝殿の謎に挑戦し、神の造った神殿説(生石神社縁起)、ゾロアスター教の祭壇説(松本清張)、石槨・石棺説(山片蟠桃ほか、考古学者)などなど、多様な説が出されています。

  • そもそも、完成品か、未完成品か。
  • 引き起こそうとしたのか、このままで完成か。
  • 別の場所(当時の中心地、奈良、大阪など)へ運ぼうとしたのか、この場所で使おうとしたのか。

こんな素朴な疑問さえ解決していません。

あなたも、現物をみて石の宝殿の謎にチャレンジしてみてはいかが?

★見学ポイント

  • 灯籠に刻まれた大坂商人の名前を見て、江戸時代に竜山石が大阪に運ばれていたのを知る
  • 生石神社さんの社務所にある浮石資料館に寄る
  • 石の宝殿のまわりを一周する
  • 表面の加工の痕跡を観察する
  • 石の宝殿の下をのぞき込んで、岩山と切り離された亀裂を確認する
  • 石の宝殿の背後の山に登り、上からながめ、周辺の地形を観察する
  • 駐車場の山裾にある古墳(竜山1号墳)の家形石棺をみる
  • 他の巨大石造物も見に行く(奈良県橿原市益田岩船、同明日香村牽牛子塚古墳など)

【参考文献】
高砂市教育委員会,2010年『石の宝殿 調査報告書』高砂市文化財調査報告14
生石神社のHPはこちら

 

裏山の上から(側面の溝)

 

裏山の上から(神社拝殿の奥にある)

 

背面の突起

 

石の宝殿の下部にある岩山との亀裂